心理を読み解く新傾向記述問題に完全対応


春夏冬の季節講習会では
丸ごと1冊 記述読解指導おこないます。
詳しいことはお問い合わせ下さい。
  君が楽しいことが僕には恐い。君が恐いことが僕は平気。人はいろいろだが、笑われそうな弱さを分かち合ったとき、僕たちは強く仲良くなれる(ロープ)。人と人との関係は変わってゆくけれど、幸せなときは確かにあった。他人の苦しさや優しさを知って人間は成長する(まつぼっくり)。他人と実際に会わなければ、本当に分からない悲しみを言葉でなく感じたとき人間は本当に優しくなれる(夏の朝)。しかし他人の立場を全く理解しようとしないとき、人はとても残酷になるし、他人を悪人にしてしまう恐れもある(ナツメグ)。自分の苦しみや悲しさに周囲が無関心なとき、人は泣きながら夢を見るし、つらい現実のなかに目覚めなくてはならない(巣守りたまご)。 全体を通じ著者は、他人を思いやる気持ちと、避けないで他人や現実と向き合うことの重要性を強く訴えてゆく。また、今の社会に最も欠けた部分と思われる大人が子供に自分たちの経験(スポット)や物想うことの楽しみ(目をつぶって)などを 語りかけながら、子供の情操や夢を育むことの重要性も説いてゆく。  読後、人間の多様性を認め合い、互いに慈しみ合うことが、自分の成長や自己実現につながるということを再認識させられる。 イギリス人の視点であるがゆえ、より多くの人に客観性を認めていただけるという点でも優良な1冊と思う。 生徒が個々の登場人物の気持ちを肌で感じ、そしてそのことをしっかりと自分の言葉で記述できるような授業をしたいと思う。      

重松清『半パン・デイズ』
(暁星・成城中学入試問題 国語出題作品)

< ガキ大将がいた頃 >主人公は小学1年生。東京から中国地方の海沿いの街に引っ越してきたばかり。そこからこの物語が始まる。その町は父親が生まれた町だ。その町には父親の年の離れた兄がいて主人公一家の世話をしてくれる。ちょっと乱暴だが気の優しい人。弟をこんな風に言う。「クミアイでアカの手先になるために東京に行かせたわけじゃない」 おじさんは運送屋の社長で、弟である父親は大学出のインテリだ。二人は仲が悪そうだが、男気があるというところは同じようで、父親はクミアイのことでいろいろあり胃潰瘍になって会社を辞め帰郷したのだが、おじさんも世話をした従業員に裏切られたりする。主人公のヒロシが2年生のとき大阪万博が開かれているから、今年で40歳になる年代だ。集団登校があったり、ガキ大将がいるという世代である。この時代、中学に入学したら小学生とは遊ばないなんて不文律のようなものがあった。大人と子どもの境がはっきりしていた頃だ。彼が言っていることももっともだと帰宅して父が言っていたから、説得は失敗したらしい。組織は組織のために動くのだし、言葉の上では正しいことでも、それが、そのまま存在し、機能することはない。なまじ真面目に正義を追究すれば、利用されひどい目に会うんじゃないかと親は思うだろう。それが知恵というものだ。しかし若いうちはその知恵がうっとおしかったり、偽善的に思えたりするものだ。この作品は9つの章から成り立っている。「しゃぼんだま」と「二十日草」は切ない話である。  生徒たちにとってみればこれはまさに親の世代の話だが、そこで、現代との違い、或いは、変わらないものを授業では味わって欲しいと思う。
     

梨木香歩『西の魔女が死んだ』
中学校に入ってまもなく登校拒否をおこしたまいが、田舎に住む祖母の家でしばらくの間、祖母とふたりきりで生活していく様子を描いた物語。祖母はじつは魔女の血を引く家系の女であり、まいが祖母から魔女になるためのレッスンを受けることになる。もともとは外国人で、日本人の男性と結婚して日本で暮らすようになった祖母が語る、自分の先祖が体験したという予知能力や透視といった不思議な力――まいは、自分にもそんな力があれば、もっとスムーズに中学校でもやっていけるのではないか、と大きな期待を抱くのだが、祖母がまいに課した、魔女になるための「基礎トレーニング」とは、「まず、早寝早起き。食事をしっかりとり、よく運動し、規則正しい生活をする」というものだった。 本書はたんなる登校拒否児の再生の物語であることを超えて、人が本当に幸せに生きていくための普遍的な物語へと変化する。  本書のタイトルを見ればあきらかであるが、物語は祖母の死という、ひとつの流れの終焉を冒頭に持ってきている。人の死というのは重い事実であり、また人は死んだらどうなるのか、という疑問はけっして誰にも答えることのできないものであり、だからこそ死はときに人をもっとも恐怖させる要素でもある。魔女修行にとって天敵でもある、心を動揺させる外からの要素――本書のラストで祖母が見せた、そしてまいが気づいたたったひとつの魔法が、本書が語る「魔女」の本質をもっともよく現わしていると言えるだろう。死とはあくまで自然の流れであり、四季が移り変わり、草木が枯れてまた青々と生い茂るのと同等のものなのだ、と。
     

中沢けい『楽隊のうさぎ』
 中学に入って、勧誘されるがままにブラバンに入部し、パーカッションを始めた克久少年の日々の生活が描かれる。  ブラバンの人にとって、普門館でのコンクールは毎年毎年の大きな目標であって、アマチュアオーケストラにはそのような場はないので実際の感じはよく分からないが、なぜ、楽隊に入って舞台の上で演奏するのか、本質的なところでは克久も私も変わらない。才能無きしろうとの身ゆえ、音楽的な何かがそこにあるとはおこがましくてとても言えないが、舞台の上の孤独な一人一人が、音を出すことによって、「互いがそこに在る」ということを感じることが出来る。確かに、その感触は他の何物にも替えがたい。
     

池澤夏樹『母なる自然のおっぱい』
「おっぱい」なんて単語をタイトルにつけられるとちょっとドキッとしてしまうが、つまりは「自然の恵み」ということなのだろう。人という生き物が他の生物や自然とどう接してきたか・・・”文明”という、自然界からみれば”凶器”を持ってしまった人類が、他の生き物や自然界と折り合いをつけてやっていくにはどうすべきなのだろう、という問題提起を様々な切り口から語られている。 狩猟を主な生活の糧とする民族では、獲物を与えてくれた自然界に感謝をし、狩猟という行為に関わったかどうかに拘わらず獲物は一族で平等に分けられる。 農耕を生活の中心とする民族では長い時間をかけて作物を育てる。収穫は一年の間のごく短い時期に限られるために必然的に”蓄える”という行為が発生し、これが貧富の差を生むことになる。そして貧富の差は競争に発展し、文明は加速される・・・。 人は自然や環境を破壊しすぎたことは皆が知っていることである。そしてどうすれば良いのかということもみんななんとなく判っているのだ。それでも人は自分たちの進む先を変えられないでいる。 そんなことを考えさせられる一冊である。
     

伊集院 静『機関車先生』
瀬戸内海に浮かぶ小島、葉名島の小学校に、ある1人の青年が臨時教師としてやって来た。期待と不安で胸を膨らませていた子供たちは、先生が黒板に書いた言葉に目を丸くする。“ぼくは話をすることができません”。しかし、すぐに“機関車先生”とあだ名をつけ大はしゃぎ。こうして、口をきけない“機関車先生”と7人の子供たちの交流が陽気に幕を開ける…。 『二十四の瞳』『瀬戸内少年野球団』に続き、瀬戸内海からまたひとつ美しい物語が誕生した。原作は伊集院静の同名小説。美しい海と深い緑に囲まれた島を舞台に、温情あふれるさまざまな人間模様が叙情的に繰り広げられる感動作。
     

笹山久三『四万十川』
四万十川岸に住む一家。川のジャリ取りが大型機械に取って変わったり、父親は足を機械に挟まれたりすることに象徴される機械化、文明化による生活の変化と破壊。小犬を曳き殺された狂犬は、生活を壊された人々の姿に繋がる。機械に仕事を追われた人々は出稼ぎや、街への引っ越しをせざるえない。その様にして息子家族が引っ越して行った太一のお婆さんは、伝説の魔物がゼニになって帰ってきた、とつぶやく。  家は台風に壊される。親の仕事のため転校する子供もいる。家や畑を持っている者は残り、その他の者は出て行かなければ仕事も無くなってしまう。近代化のみでなく、自然もまた、彼らに厳しい。  その様な時代の移り変わりの中で、アツユキは成長していく。父親の入院や出稼ぎは親離れの第一歩だろうか。尊敬する人物としての兄から"ケンカ"という、生きていく方法と正義感(これは、姉に対する家族愛の延長として導き出される)。アツを最も可愛がってくれた姉との不仲は、反抗期と来るべく性への目覚め、そして、その性対象は姉の分身としての"イジメられっ子"に対する親切として現われてくる。  これらのアツの愛情は、猫キーへの可愛がり様に示されている。会話の中でしか紹介されないが、キーの子供達は貰われていく。それは、生活の為であり、その時に泣いたというアツの悲しみは出ていく姉への悲しみと重なる。  アツは正義感や愛情により、権力に対抗することも覚える。太一をかばって先生に怒られても、ケンカでおこられても自分のしたことを信じて、頭を下げない。伝説の魔物を前にした新珠の三男の様に。生活を脅かす、そして小犬を曳き殺したトラックにも立ち向かう。兄から教わったケンカの方法、太一のお婆ちゃんから聞かされた伝承によって、アツは大きくなっていく。  アツは泣き虫だが、子供が泣くとき、その対象は子供にとって不条理だからだ。人は不条理、如何ともし難い事に、悲しみの涙を流す。出ていく姉に対して、父親は「何もしてやることが出来なかった」と言って、泣く。生活由にそうなってしまい、その悔しさに涙を流す。  アツは、自分の家族愛によって強くなっていく。時代の変化の中で、人の生活もアツの様に成長しなければならない。
     

重松清『きよしこ』
(桜蔭中・筑波附中入試問題 国語出題作品)

「きよしこ」の題名から、すでに想像の付くところはあるだろう。 重松清の“私小説”ではなく、“個人的なお話”だ。 少年から青年の一歩手前になるまでの「きよし少年」の短編集。 お話すべてに少年の持つ「吃音」「どもり」が根底にある。 この大きく難題なコンプレックスと 引越、転校という環境の大きな変化を次々に抱えながら 少年は成長していく。カ行、タ行、濁音を避けながら。 自分の胸に思っていることを、そのまま口にできないもどかしさ。 幼い頃からずっとそうであった少年の心の痛みは計り知れない。 自分の言いたいこと半分も言えないまま 引越や転校でで全く未知の世界へ放り込まれる気持ちもまた。 だからこそ、口に出して言えない心の部分を 適切な言葉と形容で、見事に表現できる作家として開花した。 その主人公の内面を感じ取る授業を展開したいと思う。     
     

マイケル・ドリス『朝の少女』
(麻布中学入試問題 国語出題作品)

朝の少女と星の少年を中心に、家族愛や兄弟愛がほのぼのと描かれている。どこにでもありふれた姉弟は、ケンカをしながらも日々成長してゆく。彼らの家族はお互いを支え合いながら生活をしており、また自分を取り巻く他者が、 自分にとってかけがえのない存在であることを理解していく。  しかしながら、この作品は一筋縄では終わらない。最終場面で、カヌーに乗った異国人がやって来る。朝の少女たちの家族および村の住人たちは、彼らに自分たちの最大限のもてなしをして、そこで話は終わるが、エピローグではとんでもない大どんでん返しが待ち受けている。ここでは、その異国人が自分の故郷へ宛てた手紙が記されているが、 この部分で読者は一気に奈落の底へ突き落とされる。 衝撃的なエンディングが用意されており、最後の最後まで目が離せない作品。授業ではネイティブアメリカンの空気を肌で感じて欲しい。
     

※入試対策としては、まだ出題されてない新刊本などを読みます。
国語を得意にする指導方法

文章は読解技術だけではその内容までは理解できません。
論文を理解するにはその背景となる知識が、
小説を味わうにはその文学的空気をわかることが
もっとも大切なことなのです。
内容のない形式は存在しません。
したがって、国語問題集のこまぎれ文ばかり
読ませるのではなく
1冊丸ごと一緒に読みながら子供たちに理解させていくことが
一番の近道です。
     


最近の入試問題出題作品
  注目作品を読む

小説

安東みきえ『天のシーソー』、村山由佳『約束』、湯元香樹美『夏の庭』、 吉本ばなな『体は全部知っている』、マイケル・ドリス『朝の少女』、薄井ゆうじ『十四歳漂流』、 フィリッパ・ピアス『8つの物語 思い出の子どもたち』等の小説を1冊読んで 読解、記述指導を行っていきます。

論説文

加藤尚武『環境倫理学のすすめ』、石 弘之『地球環境報告U』、青木保『異文化理解』、 大野晋『日本語練習帳』等の新書版や池田晶子『14歳からの哲学』等の哲学書を読んで 読解(指示語、接続語、テーマなど)を指導し、 記述のトレーニングをします。

1冊の本の指導でノートいっぱいに記述練習をします。すみからすみまで、細かく読解の基本を分析して、本を読む楽しみ、作文、論述をする楽しみを味わっていきます。


来塾できる方にはそのノートをお見せいたします。
豊富な題材から指導する本を選びます。
国語の得意な方はより得意に、
苦手な方は読書や記述作文の楽しさがわかり得意科目にできます。



<コラム>正解のない時代を生きるために
いまこの国では、自分の意見を表現する力、いわゆる「コミュニケーションするチカラ」が、急速に退化しています。  たとえば、東京大学の苅谷剛彦教授は、その著書『知的複眼思考法』(講談社)で、こんなふうに述べています。
「受験勉強に精を出して東大に入学してきた学生たちは、なるほど勉強熱心ではあるし、のみ込みも早い。答えの探し方も得意である。だが、自ら問いを探したり、それを上手に表現することになると、発想の堅さが目につくのである。」  なぜでしょう? 原因は、次の3つに絞り込めるのではないでしょうか。
その(1) 社会そのものが便利になり、
コミュニケーションする必要がないこと


 100円出せば自動販売機で飲み物が買えますし、コンビニに行けば無言のまま1時間でも立ち読みしていられます。昔のように駄菓子屋でオバチャンと交流したり、お母さんの買い物に付き合って、安くて活きのいいネタを選び抜くため魚屋さんと値引き交渉するのを聞く機会もなくなりました。
 小中学生のコミュニケーションは、仲間同士で戦ったり交渉したりする代わりに、ゲームマシンの中での指先の操作に変換されてしまいました。
 イジメも、強いものが弱いものを言葉で攻撃するのではなく、無視して会話を遮断する“ハブ”という方法が好まれます。
 電車の中での最高の暇つぶしは、もはやケータイでのメールチェックとチャットです。ここでもコミュニケーションは、親指の裏側に隠されてしまいます。
 家庭でも、もはや会話はそれほど必要ありません。家族がそれぞれの役割を黙って演じているかぎり、傷つけられることはないのです。本来、違った考えの人間が同居していれば起こるはずの衝突やコミュニケーションのすき間はテレビが埋めてくれ、
「勉強しなさい」「マジ、ウルセエなあ」
「宿題大丈夫なの?」「関係ないって」
「英語はどうだった?」「まあまあ」
「今度の先生は発音どうなの?」「別に……」
「あんた何考えてるのよ」「意味不明!」
 てな具合の対話、いや独り言の応酬で日常が過ぎていきます。
戦いのないところでは、コミュニケーションは退化するのです。
その(2) 時代が常に“正解”を要求していたこと


 戦後、高度産業化によっていち早く経済的に豊かになることを目指した日本は、暗黙の宗教として“早く”“ちゃんと”“いい子に”正解に到達することを美徳としました。そうした情報処理力の高いサラリーマンを大量に輩出することが、産業界から求められたからです。
 早く豊かになってしまえるなら家庭にとってもありがたい。だから、父と母は役割分担をして、父は会社で、母は家庭で、“早く”“ちゃんと”仕事をこなしてきたのです。この態度を日本人に広く浸透させるのに機能したのは、ほかでもない、学校です。
 学校は、産業界の出先機関として「できるだけ早く空欄に正解を書き入れなさい。あなたも、あなたも、みんなガンバレばできるんだから!」という“サラリーマン教”の教義を広め、家庭はさらに学校の出先機関となって子育てにもこの教義を採用しました。
 間違った教義を教え込んだ、と指摘したいのではありません。“早く”“ちゃんと”“いい子に”という宗教を採用したことは、大正解だった。だからこそ日本には、こんなに早く、大量の中流サラリーマン家庭が出現しました。
 こうして日本の教育は、正解のない中で試行錯誤しながら、異なる意見を持った他人と対話し、ディベートして、自分の考えを実現させる技術を置き去りにしました。、そして大人たちは今、改めて正解のない現実を前にして、思考停止に陥っています。
 自分の人生を実現するためのコミュニケーション技術を何も身につけていないことに呆然としながら――。
その(3) 日本の「国語の授業」は、戦後一貫して「道徳の授業」だったこと


 太宰治の『走れメロス』やヘルマン・ヘッセの『少年の日の思い出』によって“友情”とは何かを学び、魯迅(ろじん)の『故郷』によって“望郷の情”を学び、向田邦子の『字のないはがき』で“親子の情愛”を学ぶ。これらの作品は、不思議にどの教科書メーカーの教科書にも登場する定番です。
 戦後、GHQの指導で、「修身」による道徳教育が禁じられたため、「国語の教科書」で道徳教育をなし、好ましい日本人を育てようとしたのも無理はないでしょう。また、国語の教科書に登場するこれらの文章は、すべて良質な日本語で書かれていますから、漢字の知識も含めて“国語力”が高まることには、疑いの余地はありません。
 しかし、いっぽうで、無条件に「正しい」文章を読み続けるだけだと、、書かれているものを批判する力や、自分で考えようとする意欲がそがれることになります。
「下がりおろう! このお方をどなたと心得る」と見得を切る“水戸黄門の印籠”のように、“裏切りのない友情”や“限りない親の愛”という絶対的な価値の前では、私たちは、ただ頭(こうべ)を垂れる以外ないでしょう。  従来の国語の授業で、読解を学んでいるだけでは、素晴らしい日本語を真似することはできても、ディベートや議論は起こりえない。、
つまり、現代社会の中で試行錯誤しながら自分の人生を選び取っていくために必要な“コミュニケーションするチカラ”は育ちません。



 さて、以上見てきた日本人のコミュニケーション力にダメージを与えている3つの原因のうち、1つめは便利になった社会の構造からくるもの、2つめは時代の要請からくるものですから、どちらも私たちには御しがたい、アン・コントローラブルな要因です。
 コントローラブルなのは、3つめだけ。
そこで、「コミュニケーションするチカラ」を育てるために私たちに今できることは、従来とは別の視点でコミュニケーション技術に特化した国語の授業をすることなのです。

 
知恵の館の一冊丸ごと授業はそんな授業です。
 




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